プールに飛び込んだ瞬間の水しぶきを、2週間かけて描く。88歳になってもiPadで庭の四季を描き続ける。デイヴィッド・ホックニーは、60年以上にわたって「見るとはどういうことか」を問い続けたイギリスの巨匠です。2026年6月、88歳でその生涯を閉じました。
この記事では、ホックニーがどんな作家で、どんな作品を残したのか、代表作10点の解説を中心にまとめました。現代アート全体の中での位置づけは、ピラー記事もあわせてどうぞ。
- デイヴィッド・ホックニーとは?基本情報
- 代表作10選:作品から読み解くホックニーの視点
- 1. A Bigger Splash/1967年
- 2. Mr and Mrs Clark and Percy/1970年〜1971年
- 3. Portrait of an Artist (Pool with Two Figures)/1972年
- 4. Pearblossom Hwy., 11th–18th April 1986, #2/1986年
- 5. Secret Knowledge(秘密の知識)/2001年
- 6. Bigger Trees Near Warter/2007年
- 7. 「A Rake’s Progress」の舞台美術/1975年
- 8. iPadドローイングと「春の到来」シリーズ/2010年代〜
- 9. デイヴィッド・ホックニー展(東京都現代美術館)/2023年
- 10. David Hockney 25(フォンダシオン ルイ・ヴィトン)/2025年
- よくある質問
- まとめ
デイヴィッド・ホックニーとは?基本情報
デイヴィッド・ホックニーは1937年、イギリス北部ブラッドフォード生まれ。良心的兵役拒否者だった父の影響で、自身も病院勤務で兵役義務を果たしました。ブラッドフォード美術学校を経て、1959年にロンドンの王立芸術大学(RCA)へ入学。大学側の要求に反発し、自分の描きたいものを描いた卒業制作作品で、それでも最優秀の金メダルを獲得したという逸話が残っています。在学中の1961年、ウォルト・ホイットマンの詩をタイトルに引用した「We Two Boys Together Clinging」を発表し、同性愛というテーマを早くも作品に取り入れました。
1963年に初めてロサンゼルスを訪れたホックニーは、その明るい光とモダンな建築、そしてプールのある暮らしに強く惹きつけられます。1978年に正式に移住するまで、イギリスとアメリカを行き来しながら、以降のキャリアを決定づける「光と水」のモチーフに出会いました。
代表作10選:作品から読み解くホックニーの視点
1. A Bigger Splash/1967年
カリフォルニアの邸宅のプールに、誰かが飛び込んだ直後の水しぶきだけを描いた作品です。人物の姿はどこにもなく、水面の動きだけがその存在を物語ります。実際の水しぶきは一瞬で消えてしまうものですが、ホックニーはこれを2週間かけて丹念に描き上げました。この「一瞬」と「持続する時間」の対比こそが、この作品を単なる風景画以上のものにしています。
2. Mr and Mrs Clark and Percy/1970年〜1971年
ファッションデザイナーのオジー・クラークと、テキスタイルデザイナーのシーリア・バートウェルの結婚後の暮らしを描いた二重肖像画です。ヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻像」を下敷きに、あえて夫が座り妻が立つという、伝統的な結婚肖像画の構図を反転させています。ホックニー自身が「最も自然主義に近づいた作品」と語るこの絵は、2005年のイギリス「最も偉大な絵画」投票で、存命作家の作品として唯一トップ10入りを果たしました。
3. Portrait of an Artist (Pool with Two Figures)/1972年
プールの中を泳ぐ人物と、それを見つめる男性を組み合わせて描いた作品です。2枚の異なる写真をもとに構成されており、ホックニーの「ダブル・イメージ」的な手法が結実しています。2018年、ニューヨークのオークションで9,030万ドルという価格で落札され、当時の存命作家によるオークション最高額を記録しました。しかしこの記録はわずか1年後、ジェフ・クーンズの「Rabbit」によって更新されています。
4. Pearblossom Hwy., 11th–18th April 1986, #2/1986年
「ジョイナー」と呼ばれる、ホックニー独自のフォトコラージュ技法を代表する作品です。1980年代、ポラロイドや現像写真を大量に組み合わせて1枚の風景を構成するこの手法を、ホックニーは偶然から編み出しました。異なる時間、異なる角度から撮影された無数の断片が1枚の道路風景に再構成される様子は、キュビスムを写真で再現するような試みであり、「人間がものを見るという行為そのもの」を問い直す狙いがあったといいます。
5. Secret Knowledge(秘密の知識)/2001年
絵画作品ではなく、ホックニーが2年をかけてまとめた1冊の本とそれに基づく理論です。15〜16世紀の巨匠たちが、凹面鏡やカメラ・オブスキュラといった光学機器を使って、驚異的な写実表現を実現していたのではないかという説を、多数の絵画分析とともに提示しました。この「ホックニー=ファルコ説」(物理学者チャールズ・ファルコとの共同研究)は、美術史家や光学の専門家を巻き込む大論争を引き起こしています。ホックニー自身は「光学機器を使っていたとしても、それを使いこなす技術と感性そのものが偉業だ」と強調しており、巨匠たちの権威を貶めるためではなく、道具と創造性の関係を問い直すための試みだったと説明しています。
6. Bigger Trees Near Warter/2007年
ホックニーの生まれ故郷に近いヨークシャーの森を、野外で50枚のキャンバスに分割して描いた、高さ約4.5メートル、幅約12メートルにおよぶ最大級の作品です。2000年代、拠点をイギリスに戻したホックニーは、この作品を皮切りにヨークシャーの風景を繰り返し描くようになります。完成後、この大作はテート美術館に寄贈されました。
7. 「A Rake’s Progress」の舞台美術/1975年
イギリスのグラインドボーン音楽祭で上演されたストラヴィンスキーのオペラ「放蕩者のなりゆき」のために手がけた、ホックニー初の舞台美術です。以降、シカゴ・リリック・オペラやサンフランシスコ・オペラ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場など、世界各地のオペラ・演劇作品の舞台美術を数多く手がけるようになり、絵画とは異なる立体的な視覚表現への関心を広げていきました。
8. iPadドローイングと「春の到来」シリーズ/2010年代〜
2009年からiPhone、続いてiPadで絵を描き始めたホックニーは、新しい道具への好奇心を生涯失いませんでした。2020年、新型コロナのロックダウン下でフランス・ノルマンディーの農家に滞在していたホックニーは、庭の木々が冬から春へと移り変わる様子をiPadで毎日描き続けます。「春が来ることは、誰にも止められないのだと忘れないでほしい」というメッセージとともに友人たちに送られたこれらの作品は、パンデミック下の世界で大きな話題を呼びました。最終的に220点を超える連作になり、全長90メートルにもおよぶ大型インスタレーションとしても展示されています。
9. デイヴィッド・ホックニー展(東京都現代美術館)/2023年
日本では27年ぶりとなる大規模個展が、東京都現代美術館で開催されました。初期の代表作から、iPadで描いた「春の到来」シリーズの90メートル大作まで、約120点が一堂に会し、60年を超えるキャリアを俯瞰する内容になっています。会期直前に86歳の誕生日を迎えたホックニーの、チェック柄のスーツに黄色いクロックスという茶目っ気あふれる装いの写真も話題になりました。
10. David Hockney 25(フォンダシオン ルイ・ヴィトン)/2025年
パリのフォンダシオン ルイ・ヴィトンで開催された、400点を超える作品を集めたホックニー史上最大規模の回顧展です。数十年におよぶキャリアを網羅するこの展覧会は、結果的にホックニーが自ら立ち会った最後の大規模回顧展になりました。2026年6月、ロンドンの自宅で88歳の生涯を静かに閉じています。
よくある質問
ホックニーの「秘密の知識」説は今も論争があるの?
はい。多くの美術史家が部分的には評価しつつも、巨匠たちの技量を過小評価しているという反論も根強く、決着はついていません。ホックニー自身の主張は、光学機器の使用が芸術性を損なうものではないという立場でした。
なぜホックニーはずっとプールを描き続けたの?
1963年に初めて訪れたロサンゼルスの光や生活様式に強く惹かれ、水面の揺らぎや反射を描くことに芸術的な関心を見出したためです。「A Bigger Splash」をはじめとする一連のプール作品は、以降のキャリアを決定づけるモチーフになりました。
いちばん高く売れたホックニー作品は?
2018年に9,030万ドルで落札された「Portrait of an Artist (Pool with Two Figures)」が、ホックニー自身の最高額です。この落札は当時、存命作家によるオークション最高額の記録でもありましたが、翌年ジェフ・クーンズの「Rabbit」に塗り替えられています。
iPadで絵を描くようになったのはいつから?
2009年ごろからiPhoneで、その後iPadで日常的に絵を描くようになりました。2020年のロックダウン中にノルマンディーで制作した「春の到来」シリーズは、この技法を象徴する代表作です。
まとめ
プールの水しぶきから、iPadで描く庭の四季まで。デイヴィッド・ホックニーは、道具がどれだけ変わっても「見ること」への好奇心を失わなかった画家でした。存命作家の最高額記録を打ち立て、その記録を惜しげもなく譲り渡し、88歳まで新しい機材を試し続けたその姿勢こそ、この巨匠が遺した最大のメッセージなのかもしれません。
ほかの現代アート作家との比較や全体像は、現代アート入門のピラー記事でまとめています。記録を引き継いだジェフ・クーンズについては、こちらの記事もあわせてどうぞ。


